« 2007年10月  耀ニュース・トピックス 一覧へ  2007年12月 »

2007年11月 アーカイブ

国文科10期生利根川啓子さんの『風が吹いたら…』 

 国文科10期生利根川啓子(ペンネーム伊藤啓子)さんのエッセイ集『風が吹いたら…』(みちのく書房)を紹介します。
 この本は、月刊『ほいづん』に平成12年9月号から平成14年3月号まで、1年7か月にわたって掲載された利根川さんのエッセイをまとめたものです。巻末の「あとがき」を紹介します(資料は、みちのく書房の許可を得て転載)。
 写真は今年の4月26日に撮影したものです。

 あとがき
 月刊「ほいづん」に二〇〇〇年九月号から二〇〇二年三月号まで連載されたものをまとめた。
 二〇〇二年三月より「看護婦」の名称が「看護師」と改正されたが、文中では連載時のまま「看護婦」「訪問看護婦」とした。また、当初のタイトルは「四十路追い風…ときどき向い風」だったが、出版にあたり「風が吹いたら…」と改題した。若い頃から、ひらめいた次には走り出している。その性格は今も変わらないが、もはや四十も半ば。風が吹いたら、さぁどうする、と一旦立ち止まってみることもしなくては、という自戒を込めた。
 日がな詩だらけでいると、回りがぶれて見えたり、からだがここにあるのに、心だけが遥かなところでふわふわしていることがある。エッセイを書いている間は、詩とは別の呼吸をしていることに気づく。日常からはみ出しがちな自分を引き戻して我に返る、貴重な時間である。特に、このたび「ほいづん」に書くにあたっては、多くの方のお話を聞き、まめに行動して視野を拡げるように努めた。この一年半で、少しは地に足がついたような気がする。
 新関昭男さんには、連載中から毎回写真を添えていただき、また、長年母がお世話になった至誠堂総合病院のスタッフの方々には、撮影に協力していただいた。
 書く場を与えてくださった月刊「ほいづん」編集発行人の伊藤美代子さんに、心から感謝申しあげます。
 二〇〇三年一月

 利根川さんの著書に関する記事は「耀ニュース・トピックス(2007.10.24)(2007.10.24)(2007.10.24)(2007.10.24)」をご覧ください。
 評論活動に関する記事は「耀ニュース・トピックス (2007.10.29)(2007.7.20) (2007.5.2) 」をご覧ください。
 「MOE」の関連記事は「耀ニュース・トピックス(2007.10.12) (2007.8.2)(2007.4.19)」をご覧ください。
 『やまがた街角』掲載のエッセイに関する記事は「耀ニュース・トピックス(2007.10.2) (2007.8.2) (2007.5.31) (2007.4.16) (2007.2.6) 」をご覧ください。
 その他の記事は「耀ニュース・トピックス (2007.5.28) (2007.5.23) (2007.5.11) (2007.4.26) (2006.9.21) 」をご覧ください。

九条菜月さん(国文科36期生のペンネーム)の『ヴェアヴォルフ オルデンベルク探偵事務所録』 

 九条菜月さん(国文科36期生のペンネーム)が、『ヴェアヴォルフ オルデンベルク探偵事務所録』を中央公論新社から出版しました。
 この作品は、第2回C★NOVELS大賞・特別賞を受賞した『ライカンスロープ』を加筆・訂正したものです。なお、イラストは伊藤明十氏によるものです(資料は、中央公論新社の許可を得て転載)。
 九条菜月さんからメッセージをいただきましたので紹介します。

 初めまして、九条菜月と申します。山形短期大学を卒業して六年が経ちますが、在学中のことは昨日のことのように思い出されます。旧館は取り壊されてしまったそうですが、私は山形短期大学の敷地内にある寮に二年間お世話になっていました。在学中、学業の傍ら小説を書いては投稿することを繰り返していたため、毎朝授業開始ぎりぎりに飛び起きては授業開始のチャイムを聞きながら走ったものです。部活動にもたくさん入っていました。推理研究部、演劇部、コーラス部と掛けもちでしたが、忙しいことが全然苦にならないくらい楽しかったことを覚えています。特に推理研究部は、推理小説好きな顧問の先生と友人たちと立ち上げたものなので感慨深いものがあります。先日、短大のホームページをみたところ文化部のところに「推理研究」とあったので、やった!続いてる!と興奮しました。
 私は夢を追い掛け、追い掛けてようやく叶えることができました。そこで学んだことがあります。夢を叶えるために大事なのは「努力」だということです。「努力」は必ず自分の力になります。このコメントを読んでくださった方の中にも、様々な夢をもっている方がいると思います。どうか「努力」を積み重ねてください。積み重ねたぶんだけ夢に近付いて、気付いたら手の届くところまできているかもしれませんよ。
 最後にちょっとだけ宣伝を。短大のホームページで作品の紹介をしていただいております。もしも本屋で見掛けましたら、どうぞどうぞそのままレジの方へ。特に先生方は元教え子のためと思って迷わずレジにダッシュしてください(笑)。学生の方はお財布事情もありますので、図書室の方へ。一人でも多くの方に読んでいただければ幸いです。

 (編集者注)事情により九条菜月さんの実名は公表できません。あしからずご了承願います。

総合文化学科1期生吉田晃さん来訪 

 11月2日(金)、総合文化学科1期生の吉田晃さんが来訪しました。
 吉田さんからメッセージが寄せられましたので紹介します。

 現在、神奈川県内にある大学で、多くの授業を受講し頑張っています。出身が福島ですが、今日は山短が懐かしく福島を通り越して、まっすぐ4時間かけて山形にやってきました。
 山短では先生方がやさしく、困ったときなど相談に行くと親身になって話を聞いてくれたし、懇切丁寧に指導していただいたことに感謝しています。
 これから、社会人となって働いている同期生の友人に暫くぶりに会って語り合う予定です。また、山短にきます。

国文科12期生の丹波恵子さんが「だがしや楽校フェスティバル」に出演 

 11月11日(日)、遊学館において10時から開催される「だがしや楽校フェスティバル」に、国文科12期生の丹波恵子さんが出演します。
 「だがしや楽校フェスティバル」では、10:00から「だがしや楽校コンサート」、11:00から「だがしや楽校屋台」、15:00から「NPO・ボランティアフォーム2007分科会」のプログラムが予定されていますが、丹波さんはすべてに出演します(資料は、だがしや楽校およびだがしや倶楽部の許可を得て転載)。
 写真は平成19年6月3日に撮影したものです。
 だがしや楽校に関する記事は「耀ニュース・トピックス(2007.10.24)(2007.6.4)(2007.3.7)(2006.12.25)(2006.10.18)」をご覧ください。
 コンサートに関する記事は「耀ニュース・トピックス(2006.12.25)(2006.12.7)(2006.11.25)(2006.9.26)」をご覧ください。
 その他の記事は「耀ニュース・トピックス(2007.5.1)(2006.10.19)」をご覧ください。

国文科1期生五十嵐清子(同窓会会長)さんのイベント 

 10月28日(日)、国文科1期生五十嵐清子(同窓会会長)さんが企画したイベント、第三回「季(とき)・華(はな)・風の小道に趣(あそ)ぶ」が五十嵐百華園で開催されました。  「コカリナの響きにのせて草の香、木のぬくもり……そして優しさ」をテーマにして、コカリナ奏者黒坂黒太郎氏の演奏に合わせて歌手の矢口周美氏が歌う『黒坂黒太郎コンサート』が開かれました。  コンサートは11時、15時、18時の3回行われましたが、司会進行は五十嵐さんが務めました。コンサートの合間には、皿沼葉八の会のみなさんが、里芋の芋煮や漬け物、おにぎりなど心のこもった手料理を提供しました。
 五十嵐さんからメッセージをいただきましたので紹介します。

 コンサートを企画して20年になります。食・器・華をテーマにしたイベントができないかと考え、篠笛の演奏や尺八の演奏などいろいろ行ってきました。今回、『黒坂黒太郎コンサート』を企画しましたが、黒坂さんとの出会いは、あるグラビア雑誌でした。
 黒坂さんは13年前、長野冬季オリンピックの会場になるジャンプ台を設営するため、多くの木が伐採されたのを知り、切られた木をただ葬ってはいけないという考えから、伐採された木でコカリナを作り、子どもたちに与えて大合奏したという記事でした。「切られた木にも魂があるんだよ」という黒坂さんの言葉に、自分がつねづね思っていた草木塔への思いと似ていると考え、電話をかけたのがきっかけでした。
 また、6年前、寒河江市の依頼で黒坂さんご夫妻を慈恩寺などに案内したところ、「こういうところでコンサートをしてみたい」、「私の自宅でファミリーコンサートをしたい」という話になったことがきっかけとなり、去年から自宅で「季(とき)・華(はな)・風の小道に趣(あそ)ぶ」をテーマにコンサートを開くようになりました。
 黒坂さんには今回で3回お越しいただいております。還暦を迎えたのを機に新たな気持ちでイベントを企画していきたいと思っています。
 話は変わりますが、今月の25日(日)から29日(木)まで、皇居の清掃に「さくらんぼ奉仕団」の団長として出かける予定です。
 関連記事「耀ニュース・トピックス(2007.10.19)(2007.5.17)(2006.9.26)」をご覧ください。

五十嵐清子同窓会会長が奨学金授与のため来訪 

 11月7日、山形短期大学の創立記念日に合わせて、第1回同窓会「耀」奨学金授与式のため来訪しました。 
 写真の中央は10月28日、右は4月5日に撮影したものです。

国文科12期生の丹波恵子さんが「だがしや楽校フェスティバル」に出演 

 11月11日(日)、10時から山形市の遊学舘で開催された「だがしや楽校フェスティバル」に、国文科12期生の丹波恵子さんが出演しました。
 「だがしや楽校コンサート」のフィナーレでは、本学の学生をはじめフェスティバルに参加している人たちもステージに上がって『つどう街』を踊りながら歌い、予定時間を延長するほどの盛り上がりをみせました。
  関連記事「お知らせ(2007.11.7)」をご覧ください。

 だがしや楽校に関する記事は「耀ニュース・トピックス(2007.11.7)(2007.10.24)(2007.6.4)(2007.3.7)(2006.12.25)(2006.10.18)」をご覧ください。
 コンサートに関する記事は「耀ニュース・トピックス(2006.12.25)(2006.12.7)(2006.11.25)(2006.9.26)」をご覧ください。
 その他の記事は「耀ニュース・トピックス(2007.5.1)(2006.10.19)」をご覧ください。

元事務長庄司宏さん来訪 

 11月8日(木)、元事務長の庄司宏さんが来訪しました。
 庄司さんは満79歳ですが、パソコンが趣味で、毎日、インターネットを楽しんでいるそうです。また、昨シーズンは5回蔵王でスキーをしたそうです。
 現在、正面玄関付近と附属図書館前に飾ってある菊は庄司さんが丹誠込めて作ったものです。
 庄司さんからメッセージが寄せられましたので紹介します。

 菊の愛好会に入会してから6年になりました。ここ2~3年は大菊三本立てを数鉢づつ短大の玄関に飾ってもらってます。
 今年は小菊とダルマ作りを加えて色取りよく飾っていただきました。菊作りを始めて第一の効用は毎朝の水やりのため早起きになったこと、反対に困ることは4月から10月までは菊手入れのため旅行にも出掛けられないことです。菊作りの先生からは土つくり、肥培管理の講義を受けてますが、理論どおりには成長してくれないのが菊作りの難しさであり又面白さでもあります。今年はまずまずの出来でした。来年も大菊作りを目指しています。
 最後に「八十路なお夢を描きて菊手入」

 関連記事「やまたんニュース(2006.12.4)」をご覧ください。

国文科12期生遠藤美記さんの『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』 

 国文科12期生遠藤美記さんは、昭和53年に本学国文科に入学し、昭和55年卒業と同時に「いわさきちひろ絵本美術館」に勤務しました。しかし病気のため平成5年同美術館を退職し、翌平成6年6月8日永眠しました。
 『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』(遠藤美記著・遠藤悦子編著)は、遠藤美記さんが書きつづっていた日記の中から、母親の遠藤悦子氏が小学校から高校までのものを選んで平成7年に出版した本です。
 「はじめに」の部分を紹介します(資料は、遠藤悦子氏および東神文化企画の許可を得て転載)。

 はじめに
 この六月で娘の美記が去ってから一年を迎えます。
 思えば随分遠いことのような、また昨日のことのような気がいたします。生前彼女が日記を書いておりましたことは存じてましたが、勿論目を通したことはなく、逝った後もつらくて、とても見てみようなどとは思いませんでした。
 しかし、この度、妻の悦子がそれらの中からいくつかを選び出して記念の文集を作ろうと思い立ちました。彼女が病に襲われてから亡くなるまでの間、夫君の一浩氏には洩らしたと聞きましたが、私どもにはただの一言も恨みがましいことや、苦痛を訴えたことはありませんでした。そのことが実に私どもにとっての救いでありました。
 三十五年と云う短い人生の中で、彼女が何を感じ、何を考えていたのかの一端がこのささやかな文集の中から少しは浮び出るかも知れません。私も残されたものをこれからじっくりと読んで、彼女の短い人生の過ぎ来しを偲び冥福を祈ってゆきたいと思っております。
 終りに美記がお世話になりました、いわさきちひろ絵本美術館副館長、松本由理子さんが去年講談社よりお出しになった「ちひろ美術館物語」の中から次の一節を転写させていただいて、若き日の彼女がどんな姿に見えたのかを紹介させていただきたいと思います。

 「作文の主遠藤美記さんは今春短大を卒業したばかりの人だった。山形から面接に来た彼女は駅から走ってきたのだろうか、ほおは上気して息も荒めだった。『道に迷われたんですか?』私は尋ねた。『いいえ、昨日のうちに一度下見にこちらへきました』うっすらと鼻の頭に汗をかきながら、二十歳の彼女はとつとつと言葉少なに答えた。面接が終り、彼女が部屋を出ていくや館長の飯沢匡氏が口を開いた。『あの人いい人です。誠実ですね。どんな仕事でも絶対にいやがらず身を粉にして働く人です。ああいう人を採れば間違いありません。』」
 館長の目は正しかった。癌に倒れ、美術館を去らざるをえなくなるまでの十四年間、次々と膨らんでいく夢をしっかりと支える側に彼女はいつもいた。来館者の立場でものを考え、ちひろのこころを大切にし、あとから入ってきたスタッフの心の支えとなってくれた。彼女がいるだけで、忙しさでささくれだってしまいがちな事務室の空気が和らいだ。彼女もまたちひろの絵のような人だった。」

      一九九五年六月 父 公夫

 (編集者注)『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』は、平成8年、遠藤悦子氏より本学図書館に寄贈していただきました。是非、ご一読ください。

国文科12期生遠藤美記さんについての『通りすぎた風-メケの引き出し-』 

 『通り過ぎた風-メケの引き出し-附・悦子の自選歌集』(遠藤悦子編著)は、国文科12期生遠藤美記さんが書いた日記や詩、小説のほかに、母親である遠藤悦子氏(『ひとりぼっちの部屋』の編著者)へのメッセージ、追悼文集(美記さんの思い出)、美記さんの手紙、遠藤悦子氏の短歌から構成されています。  冒頭に、『ひとりぼっちの部屋』に関する山形新聞と置賜タイムスの記事が掲載されていますので紹介します(資料は、遠藤悦子氏および東神文化企画の許可を得て転載)。
 関連記事「耀ニュース・トピックス(2007.11.14)」をご覧ください。

亡き娘の日記、出版 「多くの悩み知った」
 南陽市赤湯の主婦遠藤悦子さん(六三)は、夫公夫さん(六五)とともに、がんに侵されて昨年六月、三十五歳の若さで亡くなった長女美記さんの子供時代の日記を集め、「ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ」として、自費出版した。
 美記さんが日記をつけていたことに気づいたのは、自宅の部屋を整理していた今年一月。「部屋は短大を卒業して東京に出た時のままになっていた。机の引き出しから五冊の日記帳を見つけ、再び悲しみがこみ上げると同時に、何とか残しておかなくてはと思った」と、悦子さんはいう。
 小学時代から高校時代の日記を抜粋し、ほかに詩や作文、両親にも内証にしていた小説などを載せている。メケは当時のニックネームで、題名は美記さんの詩のタイトルから。
 「明るくたくましく、弱音を吐くような子じゃなかったけど、多くの悩みや迷いを抱えていたことを知った。日記の中のもう一人の自分にぶつけ、答えを見いだしていたよう」と語る。
 三百部を印刷し、同級生や美記さんがお世話になった教師、同僚に配った。次第に、感想や返事が届きつつあるという。「短い人生だったけど、こうして本にすることで今はみんなと同じように生きているような気がする」。八月には美記さんが勤めていた「いわさきちひろ絵本美術館」の職員や友人たちによる追悼文集も出される。
   (一九九五年六月二十四日 山形新聞より)

知らなかった美記の心の軌跡 知って貰って供養に
 『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』…才能に恵まれ、心身ともに健やかに育った感受性豊かな少女の心の記録。日記や詩に綴られた夢、歓び、傷み、悩み。若さの輝きに溢れたこの本を、やがて成人して「いわさきちひろ絵本美術館」という最適の職場を得、幸せな結婚をして男児を授かりながら、昨年六月、三十五才で病没した娘の記念碑として両親が自費出版した。
 南陽市赤湯の主婦遠藤悦子さん(六三)が、長女美記さんの没後一周年を前に編集したもので、美記さんの親しかった人々に贈られた。短大を出て上京した時のままになっていた美記さんの机の引出しに、きちんと重ねてあった日記帳を読んで、親も気付かなかったその心の軌跡を改めて知り、明るく優しく生きようと努力していたことに打たれたという。小学校から高校までの日記の抜粋と詩、小説等をB6判二六〇頁にまとめた。書名は中二の時の詩から、メケは美記のニックネーム。
 序文で父親公夫さん(六五)が、ちひろ美術館副館長松本由理子さんの文章を引用している。「彼女がいるだけで、事務室の空気が和らいだ。彼女もまたちひろの絵のような人だった」…。
   (一九九五年七月十五日 置賜タイムスより)

生きる道求めた軌跡
 〝青春〟ということばをずっと好きになれないでいた。自分自身との内なる葛藤に戸惑い、翻弄された日々は、一筋の光を求めて歩き続けた長いトンネルのようである。それでも前へ進んで行けたのは、希望という心に抱いた大きな夢を見続けていたからなのだと思う。振り返れば、〝青春〟とは、若き日に負うためらい傷なのかもしれない。
 昨年六月、癌のため三十五歳でこの世を去った遠藤美記さんの中・高のノートを中心に編集した『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』は、亡き娘の記念碑として両親が上梓したものである。本には、生きる道を真摯に求めた少女の〝青春〟の軌跡が綴られている。
 「人を愛することはむずかしい。人間には嫉妬と欲望があるから。裏切りや憎しみの心が起こるから。でも私は愛される人間よりも愛することの出来る人間になりたい」。〝逝きしわが娘の日記数冊に作家志望の箇所を見出でつ〟そして彼女は書くことに意欲を持った人だった。
 美記さんは、昭和三十四年南陽市赤湯に生まれた。赤湯中・長井高・山形女子短大国文科を経ていわさきちひろ絵本美術館に就職する。「彼女がいるだげで、忙しさでささくれたってしまいがちな事務室の空気が和らいだ。彼女もまたちひろの絵のような人だった」(松本由理子副館長)と紹介されている。いわさきちひろは、子供や草花の絵をよく描いた。やさしくおだやかな色彩とタッチの内に秘めた雄弁な思いを彼女は感じていたのだろう。
 彼女の死は、道途(なか)ばとしかいいようがない。愛息想太君は今年四歳になるという。〝野の花にみどり児の指触れさせてをりし亡き子の姿浮び来〟。-その早すぎる死を悼むより、幼いわが子を残して逝かなければならなかった母としての無念さがやりきれない。
 人には、天命という授かった命の日があるのだとしたら、いつの日も一所懸命に生きなければならないのだと、そう思わずにはいられない。
   (一九九五年十一月二十五日 山形新聞文化欄「季節風」より)

  (編集者注1)資料の葉書は、「穏やかにすごした短大同期生より」(本文56ページ)から転載しました。なお、遠藤悦子氏の住所および差出人の住所氏名は伏せさせていただきました。
  (編集者注2)遠藤悦子氏へのメッセージの中に、本学名誉教授故松坂俊夫先生、非常勤講師故佐々木悦先生、非常勤講師鈴木実先生、武田正民話研究センター顧問の文章が掲載されています。
  (編集者注3)『通り過ぎた風-メケの引き出し-附・悦子の自選歌集』は、平成8年、遠藤悦子氏より本学図書館に寄贈していただきました。是非、ご一読ください。

国文科26期生清野千枝子さんの座談会が山形新聞に掲載 

 10月30日(火)、山形新聞朝刊のPRのページに、国文科26期生清野千枝子さんが参加した座談会が掲載されました。
 働く女性応援キャンペーンとして企画されたもので(企画・制作 山形新聞社広告局)、清野千枝子さんを含め5名の出席者とコーディネーター1名の計6名による座談会です。
 「働きやすさは社員の活力と企業価値を生む」という見出しで、他の出席者とともに、働く女性の立場から発言した内容が掲載されています。資料では清野さんの発言を抜粋しました(資料は山形新聞社の許可を得て転載)。
 清野さんからメッセージをいただきましたので紹介します。

 (株)パレス平安パレスグランデール 婚礼営業部ウェディングプランナー チーフ 清野千枝子
 短大時代にファミレスでのバイトでサービス業に目覚め、卒業後上記企業に就職致しました。
 卒業後、早14年。
 婚礼一筋に毎日悪戦苦闘しております。
 社内のさまざまな部所を経て、3年前より営業に所属致しました。
 プランナーは、結婚式当日までの段取りをする仕事でございますが両家・本人の立場や思いはさまざま。結婚することによって、若い2人の社会的立場も重みが変わってきます。まして一生に一度の大イベントです。アドバイスするにも段取りをするにも、長年勤めてきた経験は、今一番活かされていると実感しております。
 「信頼・信用」で成り立っている仕事です。「人として」を一番に考え「笑顔は最高のお化粧品(社長の言葉)」をテーマに頑張っています!

国文科12期生遠藤美記さんの本が『本の郷土館』に掲載 

 国文科12期生遠藤美記さんの『ひとりぼっちの部屋-メケのメッセージ』(遠藤美記著・遠藤悦子編著)が、本学名誉教授故松坂俊夫先生の著書『やまがた本の郷土館』(みちのく書房)第二巻(214ページ~215ページ)に掲載されていますので紹介します(本文および資料は、みちのく書房の許可を得て転載)。

 こだまする生命の歌 「ひとりぼっちの部屋」 遠藤美記
 「日記様
 私はあなたになんでも話します。そんな時一緒に考えてね。時々忘れることあるけど、忘れずに書くようにします。十一歳の少女 メケより」
 〈メケのメッセージ〉と副題のある『ひとりぼっちの部屋』は、遠藤美記(南陽市生まれ、一九五九~一九九三)の主として小学校から、高校卒業までの、日記をはじめ詩や文章を、母の遠藤悦子が選録した遺稿集である。ここからは、迷い悩みながらも、ひたむきにそして真率に、自分の道を求めて歩み続けた、若い生命の歌がこだまのように響いてくる。
 「幸せは悲しみと打ち勝って自分の手で作り出すもの、それが幸せだと思います。あなたはどうですか」
 「物語が始まるのは楽しいけれど、終るというのは悲しいことです。始めがあれば終りがある。人間だって生まれたら必ず死ななければならない」
 小学生時代の日記に、すでにしっかりと眼を見開いて、人生の奥義に達する感想を数多く記している。

  海は四つの顔をもっている         何度つきとばされてもまた
  やさしい顔と情熱的な顔           あなたの前に立つ
  さびしい顔とはげしい顔と          私はそんな執念がほしい
  私は今、はげしいあなたの前に立ちたい            (海)

 中学生になると、詩作も増え小説の習作「男のゆめ、女のゆめ」や、叙事詩「悲しい犬の物語」なども書かれ、著者の志向は文学を指す一方、自己省察とその理想は、たしかな焦点を結びはじめる。
 「一人ぼっちなのに友を求めている。人間が嫌いと言って人を愛している。」
 「愛されるよりも人を愛することの出来る人になりたい。誰もみてない所でも、みんながいやがる事を出来る様な人に。」
 収載量は少ないが、高校・短大時代の日記にもこれまで同様、読書・音楽・映画・宗教のことをはじめ、友人・学校のことなど、「もっともっとしたいことがたくさんある。ありすぎる。ため息が出そう。」と記す著者の、あふれるほどに充実した日々が綴られている。
 集中の圧巻は、著者が病気で退職するまで十四年間勤務した「いわさきちひろ絵本美術館」に就職の際の課題文「ちひろの絵と人生」(二千字)であろう。ここには、ちひろの絵の持つやさしさと、そのやさしさの由来を、そしてみずからの願いを、誠実に愛情を傾けて記しており、感銘深いエッセイである。
 『ひとりぼっちの部屋』は、一九九五年五月、東神文化企画の刊。著者写真および自筆デッサン多数。はじめに・遠藤公夫、カバー付き、B6判、二六〇ページ。本書は、念願の職場と夫に出あい、一児を得ながら三十五歳で早世した娘への両親のレクイエムとして編まれている。

 関連記事【耀ニュース・トピックス(2007.11.14)(2007.11.14)

国文科12期生遠藤美記さんのご両親からメッセージ 

 国文科12期生遠藤美記さんのご両親からメッセージをいただきましたので紹介します(写真提供遠藤悦子氏)。

 美記を思う
 遠藤公夫
 ずいぶん前に読んだ本に「すたこらさっちゃん」と呼ばれていた女性がいたのを覚えています。
 もし娘に今があれば趣は異なりますが、「すたこらみきゃん」と呼ばれていたかもと思ったりします。
 汗を拭きながらあっちに首を突っ込んだり、こっちに話をかけたり、怒ったり笑ったりの日々をきっと送っていたのではあるまいかと、彼女を時折偲んでおります。

 山形短期大学在学中に大変お世話になりました美記の母校より突然のお電話をいただきまして、しばし時の流れを生前の娘のもとに戻していただいたような気が致しました。皆様に感謝し御礼申し上げます。美記との思い出は大方彼女が日記に書き残してくれ、「一人ぼっちの部屋」「通り過ぎた風」に凝縮されているような気がします。
 高校時代の文集を見ると、風になって木々や花たち動物たち、ひとたちに沢山の事を語りかけたかったようです。だから美記は死んでなんかいないのですね。夢の実現が叶って千の風になり翔めぐっているかも知れません。そんな風に今は思っております。もしお役にたつかどうか参考までに、美記が三歳のころの思い出を次に書いてみました。

 思い出 三歳の美紀
 かすかな風が若葉を通り太陽の輝きが美しい季節でした。
 小さな可愛い女の子が焼きたてのパンを篭いっぱいに入れて両手で抱えながら、一生懸命道端を歩いて来るではありませんか。美記が三歳の頃でした。赤湯の町にも、私の家の家の近くにパン屋さんがオープンした頃の出来事です。食パンをトーストにして食べることが特別のようにハイカラぽかったのです。遠藤が胃が弱かったので早速お昼は時折パン食にしていました。現在からみればお米より高価でしたから、毎日と云う訳にはいかなかったのです。あるときお昼近くに美記の大好きな叔母さま方が突然いらっしゃいました。大人たちが挨拶をかわしている中にいつの間にか美記の姿が消えていました。美記がいないのに気づいた大人たちは大騒ぎになり神かくしのような不安をいだき近くをさがし廻りました。この不思議な出来事に、みんな心配になり真っ青になっていました。そんな大人たちの心配をよそに何とも可愛らしい小さい体に我が家のパン篭を両手で抱え、パンの匂いをさせながら誇らしげに「お母さん、パン買って来て上げたよう」と遠くから声をあげながら帰ってきたのです。大人たちはこのいとしい功績を怒ることもできず、心配と喜びに発する言葉の術もなく泣き笑いをしてしまいました。私はすぐにパン屋さんに支払いにゆきました。お店では「遠藤美記とおっしゃって食パンの数も自分で注文しました。お家のことはいつもお買いになる篭で分かりましたので心配なくお渡しした」と云うことでした。美味しいパンを叔母さまたちにもご馳走したら、みんなが喜んでくれると思ったのでしょう。このように大きくなってからも親の先手をとられて面倒をみられっぱなしのような気がします。美記がそこにいるだけで安堵感がありました。大らかで逞しい娘と思い込んでいる私に彼女は親を先取りして心配かけることもなく大空に去ってしまいました。精神的にどんなにか親に頼りたかったことでしょうに、先に母から頼られてしまって苦笑している美記の姿を思い浮かべて悔いながら、ありがとうの気持ちでいっぱいです。私の最期まで美記といたかったです。
   二〇〇七年十一月十一日  遠藤悦子

 関連記事【耀ニュース・トピックス(2007.11.14)(2007.11.14)

 

幼児教育科6期生栗原(旧姓伊藤)順子さんのメッセージ 

 幼児教育科6期生栗原(旧姓伊藤)順子さんからメッセージが寄せられましたので紹介します。

  短大を卒業してから33年。振り返ってみますと、私のこれまでの生活で一番影響を受けたのが短大時代で、毎日の生活が輝いていました。何事にも友人と共に精一杯の時間を過ごしていたと思います。特に、友人との寮生活では、四季折々の語らいは勉強より大切でした。なつかしいです。寮のおばさんの特性セロリーがいっぱい入っていた生サラダ、しっぽこうどん、おいしかった。冬は半纏を着て、雪を見ながら『こたつ』。短大での勉強は『ピアノ』。あの頃は悩みつつ周りも同じ様子だし、気は楽に試験も通過。すべてに『心暖まる情』があった日々でした。
 卒業してから2年間短大付属幼稚園に勤め、その後、家業の焼肉屋『マルタイ』を継いで現在に至っています。
 これまで人生色々ありましたが、二人の子どもに恵まれ、それぞれの道で頑張ってくれています。あの短大時代の友人と共に語り合いながら学んだ「何事にも精一杯生きる」こと。そして年1回短大で出会った友人との同窓会。店に訪れてくれるお客様。いつ会っても輝いていたいと毎日頑張っています。
 みなさん、出会いを大切に。学生生活は楽しく一日一日を大切に精一杯輝いていて欲しいと願っております。天童へお出での時は是非『マルタイ焼肉屋』へ足を運んでくださいませ」

 (編集者注1)広島カープで活躍している栗原健太選手は、栗原順子さんのご子息です。栗原選手の応援をお願いします。
 (編集者注2)中央の写真は、2002年6月、山形短期大学幼児教育科6期生の学年会(秋保温泉)で撮影したものです。